周りの望む私に「なって」生きてきた結果 -だから私は神様を信じている-

助産師リリー キリスト教福音宣教会 CGM  摂理

幼い頃
親族の ある強めの人から
「ほんと空気の読めない子だね」
と言われた

「空気を読むってどうやるんだろう」
どう振る舞うことが
正解なのか分からなくて
その場にいるのが怖かった

そのうち
空気を読むというのは
『周りの望む自分になって
 振る舞うこと』
だと
感じ始めた

「優しい子だね」
「思いやりがあるね」
「いい子だね」
「ちゃんとしてるね」

そうか
私は
「そういう私」に
なったらいいんだな

優しくて思いやりがある
いい子でちゃんとしてるような
そういう人に「なって」
生きるのが正解なんだな

だから

親にも反抗しなかった
反抗期というものを経験しなかった

トラブルが起きても
決して相手を責めなかった
自分が悪いからと場を納めた

小学校のキャンプでも
グループから外れてしまった
寄せ集めの子達の中に
人数合わせのために
自ら進んで参加した

授業で板書したノートも
自分でまとめた勉強ノートも
貸してと言われれば
いつでも誰にでも何度でも喜んで貸した

「やっぱり優しいね」
「やっぱり思いやりがあるね」
「やっぱりいい子だね」
「やっぱりちゃんとしてるね」

そうでしょ
そりゃそうだよ
そう見えるように
そう「なって」生きてるんだもん
当たり前じゃん
みんながそういう私でいてほしい
みたいに言ってくるから
私はそういう私に
「なって」いるんだよ
だって
そうじゃない私は
みんなから見たら
「リリーちゃん」ではない
んでしょ?

あぁ
私の心の中にある

「寂しいよ」
「傷ついたよ」
「もう頑張れないよ」
「わがまま言いたいよ」
「いい子でいることに疲れたよ」
「誰かそんな弱い私を
『リリーちゃんじゃないみたい』
 って思わずに
 驚かずに否定せずに受け止めてよ」
「私だって人間なんだよ」…

この
みんなから見た
「リリーちゃん」ではない
優しくなくて
思いやりがなくて
いい子じゃなくて
ちゃんとしてない
わがままな
私の本当の心の叫びたち

一体どうしたらいいんだろう…

…そうか
きっとそうだ

みんなから見た
「リリーちゃん」じゃない私は
誰にも必要とされてないんだ…

だからみんな
「やっぱりリリーちゃんは
 優しいね いい子だね」って
私に言ってくるんでしょ?

あぁ
私はなんて可哀想なんだろう
周りの「リリーちゃん」という
型にはめられて
誰にも私の本当の気持ちを
受け止めてもらえないなんて…

あぁ
もし願いか叶うなら
『リリーちゃんじゃないみたい』と
絶対に言わない誰かに
優しくなくて
思いやりがなくて
いい子じゃない
わがままな私の本当の気持ちを
受け止めてほしいよ…

……今なら
「誰もあなたに対して
 優しくて思いやりのある
 いい子のリリーになりなさいと
 強要なんてしてないよ」
「自分で強要して型にハマって
 自分で勝手に苦しくなってるのに
 それをどうして
『自分は可哀想』と
 周りのせいにして

 自己憐憫に陥ってるの?」
自分の認知の歪みを指摘できるし

優しくて思いやりのある
いい子のリリーも
私の本質でもあるんだと思うし
そんな自分のことを
ある程度私も好きなんだと思う

だけど
当時の私は
みんなから見た
「リリーちゃん」だけに
「なろう」とすることに
実は苦しんでいて

自分がこれほど大きな
自己憐憫に陥る程
「本当の自分を受け止めてほしい」
と思っていることに
気付いていなかった

…そんな中で出会ったのが
恋愛依存関係に陥ることになった
当時の恋人だった

「寂しいよ」
「傷ついたよ」
「もう頑張れないよ」
「わがまま言いたいよ」
「いい子でいることに疲れたよ」

それを全部受け止めてくれたのが
その人だった

嬉しかった
心が楽になった
もう二度とこの関係を失いたくないと思った
失ってしまったら
もう誰も本当の私を
受け止めてくれる人がいなくなる
と思ったから

そうして5年が経って
私は振られた

「いい加減自分の足で立って」
と言われた

そりゃそうだ
私は
みんなから見た
「リリーちゃん」じゃない私を
この人に全部押し付けて
受け入れてることを
強要してきたんだから

だから
別れてすぐ後の私は
自分の心を
誰にも受け止めてもらえなくなった
苦しさで
荒れに荒れた

当時の私はもちろん人間だったけれども
「誰か昔の恋人みたいに
 私のこの心を受け止めてよ…!」

という欲求が抑えられなくて

自分が人間ではないと感じるぐらい
コントロールが効かない
どん底の生き様をしていた

そこから
神様を信じるようになってからは

勿論時間はがかかったけれど
元恋人のように
いつか変わってしまうかもしれない
人間ではなくて
永遠に変わらず
否定もせず聞いてくれる神様に
自分の気持ちを話せるようになっていった

そのおかげで
少しずつ
周りの人たちに対しても
自分の受け止めてほしい本音を
行動と言葉で
伝えられるようになってきた

恋人と別れて
人間ではなかったような私は
いつの間にかどこかへ行ってしまった

…そう思っていたけれど

最近
日々のやることに
追い回されて

自分と神様との
心の距離ができてしまい

自分の本音を全部洗いざらい
神様に伝えられなくなった時があった

その途端
また昔のような
「私は誰にも受け止めてもらえない」
「本当に自分は可哀想だ」
という気持ちが
亡霊のように膨れ上がってきて

「誰も私の心を
 受け止めてくれないんだから
 この気持ちを好きに
 表現したって仕方ないでしょ」

自分を正当化して

「なんで分かってくれないの」
「昔の恋人みたいに
 私のこの心を受け止めてよ…!」

相手に遠回しに
自分の気持ちをぶつけるという
暴力的で他罰的な自分に
なってしまうことに

最近やっと
ようやく
気づくことができた

自分が
とても怖いと思った

優しくもなく思いやりもなく
「私ってホント可哀想でしょ
 同情して受け入れてよ…!」

わがままで攻撃的で
自分のことしか考えていない
チグハグな行動をしているくせに

自分では
「優しくて思いやりのある
 いい子のリリーちゃん」に
「なれている」と思い込んでいる自分が

とても恥ずかしいと思った

「被害意識強すぎて
 神様を忘れている時の自分
 マジで化け物みたい…」

と思った

でも
神様や信仰を私から取り除いたら
事実
私は化け物なのだと思う
恋人と別れた時の自分も
まさにそうだった

自分を卑下したくて
化け物だと言いたいんじゃないし
信仰をなくしたら全員が
化け物になると言いたい訳でもない

あくまでこれは私個人の話で
「今 私が
 こうして生きられているのは
 自分の力だけではない」と
「本当の自分は化け物同然の
 弱い存在なんだぞ」と
自分に叩き込んみたくて
傲慢にならず謙虚でい続けたいから
あえてそう言葉にしているところがある

実際 私は
神様を信じているから
暴力的で他罰的な自分にならずに
今の自分を保てているだけの
ただの弱い人間だ

それが事実なんだろう

この自分の話を
依存症の仲間にした時
「リリーさんも人間だったんですね」
笑って返してくれた

そうだ これは
私という人間の
ありのままの本質なのだから
悲観することでも
落ち込むことでもない

そして この本質は
私だけではないということを
日々分かち合いをしながら
知ることができているから
本当に感謝なことだと思う

…今日も私は
ある程度 自分が好きな
優しくて思いやりのある
リリーちゃんとしても
生きることができているし
こうやって
正直な弱い自分も
少しずつ語れるようになってきた

それは
神様を信じる信仰のおかげで

神様が
「寂しいよ」
「傷ついたよ」
「もう頑張れないよ」
「わがまま言いたいよ」
「いい子でいることに疲れたよ」という
私の本当の姿を
受け止めてくれていると
感じられているからこそ

私は今もこうして
謙虚な 自分を好きでいられる
生き方ができているということを
忘れたくない

と思っているし

神様から離れたら
私は
そういう弱さを1人で抱えられなくて
どうしようもなく自己中で
被害的で他罰的な寂しがりやのリリーに
戻るしかないんだ

ということも
決して忘れたくない

このブログをまとめながら
とても感じている

助産師リリー キリスト教福音宣教会 CGM  摂理

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この記事を書いた人

愛知県出身。
マザーテレサに憧れて助産師になる。
CGM(キリスト教福音宣教会)に通いながら、神様の愛を土台に【なぜ生きているだけで価値があるのか】を伝えるために、人権教育・性教育の勉強中。素で真面目に面白く人生を生きたい。

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