『助産師リリーのふぇみブログ』に
お越しくださり ありがとうございます*
みなさんは
「生きてるだけで価値がある」
と なぜ言えるのか
考えたことはありますか?
私は
この言葉が嫌いでした
「そんなの綺麗事に過ぎない」
「完璧で優秀で
周りから認められる人でなければ
価値が無い」
「社会にとって有益になるものが
私に無いのなら
生きている価値なんて無い」
と思っていたからです
だから
何かに失敗したり
出来が平均以下になったり
誰かに嫌われた気がする度に
落ち込み
その度に
「こんな自分なんて…」
「どうせ この世界は理不尽だからな…」
「“愛”や“希望”なんて綺麗ごとで嫌いだ」
「自分さえ幸せになれればいい」
「華のある若いうちにしんでしまいたい…」
と
価値を感じられない自分を
世界と他人のせいにし
「こんな人生早く終わってしまえばいい」と
考えていました
そんな私が唯一
「自分には価値がある」と感じられたことが
『恋愛』でした
恋愛をすることで
「私は恋人に必要とされている」
「だから私は生きていていい」
という
『自分の生きている価値』が感じられ
性暴力被害によって植え付けられた
「無力感」と「自己価値の喪失」を
一時的に忘れることができました。
そんな中で
キリスト教福音宣教会・CGM(摂理)の御言葉に出会いました
私は
「宗教には頼らずにメンタルを強くする」
という座右の銘を持つほど
宗教がとても嫌いでした
「いつかは御言葉を聞くのはやめよう」
と思いながら
仕方なく御言葉を聞いていました
その過程で
私は5年間付き合った恋人に
「他に好きな人ができた」と言われ
別れました
振られたこともショックでしたが
それ以上にショックだったのは
「恋人に必要とされていない
私は無価値だ」
「生きている意味も価値も私には無い」
「もう誰のことも信じられない」
という感情に押しつぶされている
『弱い自分の姿』を見たことでした
しかし
それと同時に
「自分はこんなに弱かったんだ」
「弱いままの私じゃダメだ」
「変わらなきゃ」「変わりたい」
とほんの少しずつ
思い始めました
摂理の御言葉を聞いていても
すぐに何かが
変わったわけではありません
でも御言葉を聞きながら
本当に少しずつ
私の『考え方』が変わっていきました
『あなたには価値がある』
と根拠を持って
伝えてくれる御言葉が
「私は無価値だ」という
私の『間違った考え方』を
一つ一つ
少しずつ少しずつ
崩していきました
そうして私は
自分の『考え方』が変わることで
理不尽に見えていた
世界の見え方が変わり
自分の無価値に感じた人生が
価値ある人生に感じられるように
変わっていきました
だから私は
自分自身の経験を
伝えていきたいと思っています
生きる苦しみが
性暴力被害の重みが
自分を価値無く感じる痛みが
自分には分かるからこそ
…なぜ
「生きているだけで価値がある」
と言えるのか…
それを
目立たなくて良いから
ただひたすら
謙虚に真っすぐに
伝えていきたいです
それが
【過去の私】を救い
私の抱えてきた苦しみを
生かすことに繋がるから…
こんな私ですが
よろしければ是非
お付き合いくださればと思います😌
どうぞ
よろしくお願いします🌼
教会のこと
「キリスト教福音宣教会って
どんなところ?」
「なんで神様を
信じるようになったの?」
という疑問に
アンチ宗教だった
私がお答えします
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Re:rise Newsさんから
インタビューしていただきました*